からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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受難の日の出来事

テーマは『受難の最後の(十字架にかかった)日に起きた出来事と、それに関わった人達』です。

【ルカ23章26-32節】

日本では、3人が1年8カ月ぶりに死刑が執行されました。法務大臣がそれを決定したら行われます。
それは非公開で行われます。

しかしキリストの死はそうではなかったです。最初から終わりまで全て人々の目に見えるものでした。

関わった人達もとても多いです。当時、イエス様はとても有名になっていました。
奇跡を起こしたり癒された人達にはとても人気がありました。しかし、それを妬む人達もいました。
民衆は2つに分けられていきます。

テレビでイエス様の十字架の刑を再現したものがありました。約3~4mの大きさです。
ローマ国家は危険人物だと思った人物を十字架に架けて見せしめにしました。
十字架刑にする理由は、痛みと屈辱を与えるためです。

足を地面につけている時はそんなに身体に力がかかりません。
体操の選手達は鉄棒にぶらさがったりする体勢になりますが、人間はしばらくならばそんなに苦しいことでは
ないそうです。

しかし(十字架刑の)腕を横に広げるのは不自然な体勢です。これは長くはもたないそうです。
すぐに痛みが走ります。釘は手首に打つと動脈などの血管があり、すぐに死んでしまいますので
じわじわと殺す為に、わざと手の平に釘を打ちました。釘は13cmくらいの大きさです。
十字架に架かると2倍の体重がかかります。息をするにも下に力がかかるので呼吸困難になります。
人間は息が苦しくなると、身体を上に持ち上げる為に足に力を入れるようになります。
すると今度は足の方に激しい痛みが走ります。それだけではなく、死刑囚をわざと太陽に向けて十字架を立てます。
そうなると脱水症状が起こります。水も食べ物も与えないです。
飢えと脱水症状と呼吸困難と激しい痛みを与えるために考え出されたのが十字架であります。
すぐに死ぬなら痛みが少ないです。
イエス様は十字架に6時間もかかりました。
十字架刑は私たちが想像しているよりずっと厳しいものであります。

それでもイエス様は「痛い」とも言いませんでしたが、自ら十字架に架かった目的は、
全ての人類のためでした。

これは聖書の言葉にあります。

最後の金曜日にどんな人たちが関わったでしょうか。

~ 祭司長と宮の守衛長と長老たち ~
この人達は以前からイエス様を殺したいという思いが強かったです。ユダがお金で「渡す」と言ったときは
大喜びをしてお金を渡してイエス様を捕らえに来ました。
妬みの心があり 「 私たちにチャンスが来た 」 と思いました。
この人達は外見は良い人、敬虔に見える人であります。神様に最も近い人達の姿であります。
人々はまさかこの人達が、罪のない人を妬みの心を持って殺すことは考えることもできないです。
人間の心は陰険で直らないと聖書の言葉にあります。
この人達の仕事が宗教的なものであっても、神に仕える仕事であっても、心が神様と1つにならないと
悪魔サタンはその人達の心を使います。

聖書の十戒の中に人を殺してはならないとありますが、計画を立てて殺しました。
この人達は天国に入った人はいないと思います。

【ルカ23章11節】

~ ヘロデ ~
よこしまな悪い者でした。派手な衣を着せてイエス様を笑い者にし、イエス様の人格を完全に無視する姿です。
悪人の代表者のような人でした。

【ルカ23章24-25節】

~ ピラト ~
裁判官であり、罪がないことを知っていました。
無罪であることを知りながら死刑を宣告するのは大きな間違いであります。
なぜこのようなことをしたのでしょうか。
自分の命を救う為であり、自分の立場を守る為です。自分の為に裁判を曲げました。
裁判官として正しく裁かなければいけない者が、無罪を有罪にし、しかも死刑にし、
悪い者たちの願い通りにさせました。

【ルカ23章26節】

~ シモン ~
イエス様の十字架を無理やり負わせられた人です。この人は幸せな人だと思います。
偶然その場にいましたが、本当はイエス様が自分で十字架を背負っていかなければならないです。
しかし その前に散々痛めつけられたので、そのような身体ではなかったです。
背負わせてもすぐに倒れてしまうのでたまたまその場にいたシモンに十字架を負わせました。
初めは「なんで私がこんな重い物を。罪を犯してもいないのに」 と思ったかもしれませんが、
イエス様が復活した時にその人は自分にとって祝福だったことがすごくわかると思います。
私たちは終わってみないとわからないことがたくさんあります。
「なんで私が!?」 「なんで十字架を負わなければならないのか?」と思うことがありますが、
私たちが主のために十字架を負うことは、どんな十字架であっても結果は祝福です。
神様はその人の働きに祝福を与えます。
シモンは後でイエス様を信じました。家族が神様に忠実に仕えるようになりました。それは祝福であります。

【ルカ23章27節】

~ 嘆き悲しんだ女の人たち ~
一般の人々でありイエス様を信じる人々であります。この人たちはイエス様を十字架につけることには
関わっていないです。もちろん民衆は心変わりが激しく、最初に仕えた者でもイエス様を十字架に付けろと言った人もいますが、イエス様を愛して嘆き悲しむ女の人たちがいます。
イエス様の素晴らしさは何でしょうか。聞く耳がない人たちには語りませんでしたが、
イエス様のことを本当に想って泣いている女の人たちに対しては最後の預言の言葉を語りました。
エルサレムが滅びるという言葉でありました。
そしてイエス様を殺す者たちの上にふりかかる悲惨さを思って泣きなさいという言葉でした。
ひどい滅びが彼らにはあるということです。

【ルカ23章32節】、【ルカ23章39-42節】

~ 2人の犯罪人 ~
彼らは自分で罪を犯して十字架に架かる者であります。2人共、犯罪人でありましたが1人は幸いな人であります。
この人は死ぬ直前にイエス様によって救われました。悔い改めの言葉を彼は語りました。
それまでの彼の人生は罪の連続でした。それを自分で刈り取るところまで来ていましたが
最後に神様の恵みで悔い改めることをしました。
1人は天国、1人は地獄へ、イエス様を挟んで2人の行く道が全然違いました。
このことは私たちに多くのことを教えます。罪をそのまま持っていると憐みを受けることはないです。 
しかし、どんなに罪を犯していても最後に悔い改めるなら、私たちは死ぬまではチャンスがあります。
死ぬまで救いの時、恵みの時があります。この1人は最後に恵みを手に入れました。
私たちもそのような者にならなければいけないです。
もう1人は最後の最後まで罪を犯しました。救い主に悪口を言うかたくなな心でした。

【ルカ23章35-36節】

死ぬ瞬間まで、人間が受けるあらゆる侮辱を受けながらイエス様は死にました。
民衆は最初はそういう者ではなかったのですが、イエス様が力なく弱い存在として十字架に架かり、
ある者たちは「あれは奇跡を行う者だから十字架から降りてくるだろう。」
「神様の子なら、神様が助けに来るだろう。」と色んな想像を持って眺めていました。
何かが起こるんじゃないかという期待を持って見ていました。でも自分たちが想像していたことは
起こりませんでした。
そしたら心をかたくなにしました。「やっぱり指導者、祭司たちが言っている言葉が正しいんだ。」
「あれは神の子ではない。」「あれは嘘つきだったんだ。何も起こっていないじゃないか。」
「自分を救うことが出来ないのに何が神様の子どもだ。」
そういう非難の思いがあったので彼らは好きなように嘲笑いました。これは息を引き取る6時間、
ずっと続いたものでありました。
これが最後の金曜日に起こったことであります。

死刑判決を受けて、そのまま死刑を執行する場所まで連れていかれました。世界で一番早かったかもしれません。日本でも死刑判決が出ても何年も生きている人がいます。

何の為にイエス様は惨い死を受けなければならなかったのでしょうか。
私たちの罪の為であります。罪を清算する為に、救いの道を開くためにイエス様は苦しみを受けました。

私たちが十字架を見た時に「イエス様がかわいそう」、「どれほど痛かったのか」と思って
十字架を見て泣くのではないです。イエス様を見て泣いている人たちへの言葉がありました。
それを私たちは思い出さなければならないです。

そしてイエス様が願うことは何でしょうか?
私たちを救う為に、私たちの罪の為に十字架に架かってあるならば、私たちは罪を本当に嫌わなければ
ならないです。罪を犯すならばイエス様はどれほど悲しむのか――。
イエス様は私たちが罪を犯す姿を見て悲しまれます。
私はあなたの罪のためにまた十字架に架かるのか ――

私たちは十字架に架かることがないので、罪を軽く考えます。しかし罪を軽く考えてはいけないです。
私たちが罪を好んで犯すと、それは神様を憎むことであります。神様を愛していない姿であります。
しかし罪を嫌い 憎むならば、その人は主を愛する人であります。
「 神様に、イエス様に2度と十字架の苦しみを受けさせない 」

既に起きた罪(十字架)は私たちはどうにもできないですが、それは私たちにとって祝福の十字架であります。
それが祝福だと思うならば、罪を嫌わなければならないです。

イエス様は 「 罪から離れなさい 」「 罪を捨てなさい 」 という言葉があります。
その為にわたしは苦しみを受けたんだ ――

私たちは罪を嫌いましょう。その罪のためにイエス様はとんでもない十字架の苦しみを受け、
人格が踏みにじられ、人々から嘲笑われ、そして息もできない苦しみを長い時間受けました。
「あぁ、イエス様が私に願うのは、私が罪から離れることなんだ。罪を憎むことなんだ。」

罪は私たちに「こっちに来なさい。こっちに来なさい。快楽を与える。あなたの欲しい物を与える。
こっちは楽だよ。良い道だよ。広い道だよ。みんな歩いているじゃないか。こっちの道に来なさい。」と
必死に誘惑をしてきます。
私たちは誘惑をされやすい者であります。まだまだ肉をたくさん持っているからです。
だけどその時に、私たちが思い出すことは 私の罪の為にイエス様があんなに苦しみを受けたのに
もし私自身が十字架を受けるなら1分も耐えられないのに、
また私が罪を好んで犯すと今もイエス様を十字架に架けていることなんだ。と
その事を思い出すべきであります。

罪を憎む、罪を嫌う、罪を重く考える。これが十字架が私たちに教えることであります。

2012.4.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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罪が招く結果は?

テーマは『ペテロとイスカリオテ・ユダの罪とその結果』です。

【マタイ26章14-16節】、【マタイ26章69-75節】

十二弟子は自らが志願したのではなく、イエス様が呼んだ時に、彼らは従って弟子になりました。
十二弟子は3年間、イエス様の傍で学びを受け、共に生活をしていました。

ペテロは、イエス様のことを裏切るとは思ってもいませんでした。自分は大丈夫だと自信満々でした。
いつも自分はリーダーだと思っていました。
イエス様からそのような扱いを受けた時もあったのでそう思う部分もあったと思います。

ユダはお金の管理をしていました。お金の管理は信用できない人には任せられないと思います。
信用できるから、働きもきちんとするのでユダに全て任せてきました。 

十字架の受難の前に、イエス様は弟子から裏切られたのが最初の受難です。
イエス様に敵対する人からではなく、愛していた弟子からなので心に受ける苦難でした。

そして十字架にかけられる前に、イエス様は39回のムチを打たれましたが
見えないムチを、ユダとペテロが打ちました。
肉体の傷は、治ったら 痛みが治まりますが、私たちは心に受ける傷はなかなか消えません。

人を裏切ること。特に信用していた人から裏切られることほど、心が痛いものはありません。

ペテロとユダは同じ罪ですが、少し違います。どこが違うのかというと、
ユダは、「 計画的 」でした。自分の欲のために1人で計画を立てました。
イエス様を殺そうと考えていた祭司たちに売るということは、ユダがイエス様を殺すことと同じであります。
祭司長にチャンスを与えたのがユダでした。これは、パリサイ人や律法学者よりも悪いです。
サタンのようです。最後の日まで普段と同じ顔でイエス様と共にいました。
神様から見たら、計画的なのはとても重い罪であります。

イエス様を裏切る計画を立てて行動するのはとても重い罪です。
私たちはイエス様がその計画を知って、彼(ユダ)を説得しなかったことに注目しなければなりません。
イエス様がなぜそのことを指摘しなかったのか、悔い改めのことを言わなかったのか。
ただ、『 あなたのやってる事は大きな罪である 』と語りました。出て行く時も止めませんでした。

何が一番痛いのか――?
計画的に裏切る行動をする。そしてそれを実行に移す。
これは説得しても相手は聞かないです。なぜかというと、自分の中でしっかりと計算済みだからです。
たとえイエス様が説得したとしても聞かないです。
イエス様を裏切ってでも自分の思い通りにしたい。
それが先に立っていますので、そんなことをしては駄目だと言ったとしても「あなたが優先ではないです。」と
言うだけです。自分が一番大事になってあります。
良心の咎めはあると思います。「こんな事をして良いのかな」と思いながらも、だんだん自分の思いに引っ張られて、行動する日を決めて実行してしまうと、誰が止めてもダメです。聞く耳がないです。
計算済みでシナリオ通りに動くのです。

これは私たちの姿であります。
イエス様よりも大事にするから、「イエス様を売ってでも自分の計画の方がもっと良いよ」と思います。

信仰生活は、自分のしたいことをするのが信仰生活ではないです。
イエス様と自分を比べた時、いつでもイエス様を裏切る用意が出来てあるならば、信仰ではないです。
いつでも自分が犠牲になる。いつでも自分を打ち砕く。
この準備が出来ている人が信仰をまともにしている事であります。

イスカリオテ・ユダは3年間、イエス様と共にいて毎日メッセージを聞いていました。
神様は言葉を知らない人ならば説得すると思いますが、言葉や知識はいっぱいあるので、
それを自分で知っていながら犯すことは止められないです。
だからイエス様は止めることをしませんでした。

ユダは神様のしもべではなく、自分が神様を思いのまま動かすこと。まるで物扱いをしていました。
自分の所有物のように、お金を受け取ってイエス様を売りました。
この時点で既にユダにとって、イエス様は救い主でも、先生でもありませんでした。
これは裏切りの罪でとても重いものです。

ペテロは3度 イエス様を知らないと言いますが、彼の中には傲慢な思いがあります。
「他の人が裏切っても、私は絶対裏切りません。」と、聞いた人はその言葉を信じたくなります。
しかし、結果はどうだったでしょうか?

ペテロは自分自身を信じすぎました。イエス様から「あなたは私を裏切る」という言葉を聞いてその言葉を信じて
「主よ、助けてください」と祈るならば、つまずかなかったと思いますが、ペテロはイエス様の言葉を捨てました。
「私は死ぬまで絶対に裏切ることはありません」と言いました。
これは信仰ではないです。彼の傲慢さであります。

この姿が私たちの中にもあります。私たちは「私はイエス様から絶対離れることはありません。」
「イエス様を裏切ることは絶対にしません。」「イエス様と約束したことを守ります。」と言います。
「イエス様から離れます」と言うことはないと思います。
でも実際私たちは日々、イエス様を裏切る行動をたくさんしています。約束を守らず、自分で言った言葉を守らず、
環境が変わると私たちはイエス様からすぐ離れます。

傲慢な者は倒れる。自分が立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。という言葉があります。

ペテロは人と環境に弱い者でした。突然イエス様が捕えられて状況が一変しました。
それまで自信満々だったのに急に小さくなりました。人の顔と言葉が怖くなりました。
それから彼はイエス様を「知らない」と裏切りを始めました。

私たちもそうであります。小さい迫害や、環境が変わると弱気になってイエス様から距離を置き始めます。
イエス様よりも自分を愛している姿がその中に出ています。

最もペテロが一瞬にして倒れた理由があります。
イエス様が「目を覚まして誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言った言葉をゲッセネマの園で言いました。
祈るということは神様の力を受けるということです。
しかし肉体が弱くて寝てしまいました。ペテロは祈らないといけない時に祈らなかったのです。

「私はいつ倒れるかわからない者です。」「こんなに弱い私を助けてください。」
「環境が変わっても私が倒れないように助けてください。」と毎日イエス様にすがって祈り求めるなら、
環境が変わった時にすぐに「主よ!」と祈ることができます。

普段祈らないから、自分に頼っていたから、いざ問題が起きるとあっという間に倒れてしまいます。

自分の仲間から「この人は絶対に知らないです。」と呪いの言葉をかけられたイエス様の心はどうでしょうか?
心が引き裂かれる思いだったと思います。これほど悲しいことはありません。
その後2本の大きい釘を打たれて十字架にかけられました。

ここまで2人共大きな罪を犯しましたが、その後から2人の人生は全然違う方向へ向かっていきました。

幸いなことに神様は私たちに「悔い改め」という恵みを与えてくださっています。

【マタイ26章75節】

ペテロの悔い改めの姿です。全ての罪は神様の言葉から離れた時から始まります。神様の言葉を思い出すこと。
悔い改めはここから始まります。
立ち返るには神様の言葉を思い出さなければならないです。
言葉を思い出した瞬間に彼の心は耐えられなくなりました。自分の姿が見えてきました。
「結局自分が裏切ったんだ」「私は罪人なんだ」。
激しく泣いたということが悔い改めの涙であります。罪責感で以前の自信満々の姿はなくなりました。

【マタイ27章3-5節】

ユダの姿です。ユダも自分の罪に気付きました。しかし神様の言葉を思い出すことをせず、後悔をしました。
後悔と悔い改めは全然違うものであります。イエス様を信じない者でも後悔はします。
後悔ということは神様に立ち返っていないということです。

ユダはあくまで自分の思いで行動しました。世のやり方で首を吊りました。
死んで償えることはないです。償うということは、生きて償うということです。
イエス様はどんな罪人であっても、それを許す方であります。
しかし、何故ユダは悔い改めができなかったのでしょうか?

罪も弱さの為に犯したならば立ち返るのも早いです。
しかしユダは計画的だった為、悔い改めが無理でした。
時間をかけてじっくり計算をして裏切る計画を立てて神様から離れる人たちは、
自分の思いが満杯なので悔い改めないです。自分のやり方を通していきます。涙が一滴も流れていないです。

堅い心なので何を言っても聞かないです。相変わらず強気な心です。
「何も言わないでください、自分のことは自分で始末します。」

神様はチャンスを与える方です。
イエス様の前で泣いて赦してくださいと言うならば、血潮で赦してくださると思います。

私たちにもペテロとユダの姿があります。
「私には無い」と言うならばペテロのように倒れていきます。
2つの姿があるから私たちは他人を非難することはできないです。反対に気を付けなければならないです。
「いつかペテロのようになるかもしれないし」「いつかユダのようになるかもしれないし」ということであります。

【ヨハネ21章15-19節】

ペテロは悔い改めた後、ずっと弟子たちと一緒にいました。イエス様は彼を赦しました。
イエス様はいつまでも変わらない方です。そして真実な方であります。
しかし私たちは真実ではないです。信じられないくらい心の移り変わりが激しいものです。

ペテロはイエス様を愛する心が残っていることをイエス様が知っていましたし、
そして悔い改めの涙を流したのを見たので、彼を選んで初代教会の指導者として立たせました。
これはイエス様の素晴らしさであります。
自分の心に一番大きい釘を打った弟子なのに、最初から赦す心を持って接していました。

ユダは悔い改めなかったので永遠に裏切り者として滅んでいきました。

【マタイ26章24節】

これは私たちが心に留めなければならないです。
出会った者には責任があります。イエス様に出会ってそれで良しではないです。
最後の最後の瞬間まで裏切ってはいけないです。

【ヨハネ17章12節】

滅びの子が滅びるとは、イスカリオテ・ユダのことであります。
永遠の滅びです。二度と救われることがないです。多くの恵みを受けたのにないがしろにしました。

【使徒の働き1章17-18節】

首を吊ってただ死んだだけでは終わらなかったです。呪われた死に方です。
悲惨な姿であります。

旧約聖書~新約聖書まで読んでみると、神様に対してひどい事をした人は、普通の人が死ぬような死に方ではなく
悲惨な死に方をすることが書かれてあります。

私たちはこういう者になってはいけないです。
イエス様が願うのは、心から悔い改めなさいという言葉を使っています。
悔い改めないなら永遠の命が消えていきます。永遠の滅びがきます。

罪を犯してもそのままではなくて、悔い改めるならどんなに大きい罪を犯した者でも
心を痛めて涙を流して立ち返る者には、神様はこういう人を指導者として立てます。

「末席に座りなさい。」ではないです。本当に素晴らしい主であります。

パウロもそうでした。「罪人の頭です」と。
でもイエス様が現れた時に悔い改めて3日間断食をして、そして立ち返りその後 命を懸けました。
ペテロは恥ずかしい思いを持ちながら自分が犯した罪のことを思って
2度とイエス様に同じ罪を犯しませんでした。命を懸けて主に従っていきました。

【Ⅰペテロ5章8節】

自ら犯した罪の重さを身に染みて感じたペテロの言葉なので意味が深いです。
同じ目に遭わないために経験者が神の啓示を受けて語る言葉であります。

私たちは弱さの為に倒れてしまうことがあるので、目を覚まして祈らなければならないです。
私たちはこの言葉を重く受け取りましょう。
罪を犯すたびにイエス様を苦しめていますのでそうならないように気を付けましょう。

(イエス様はそれを受けてから、ローマの兵士達に苦しみを受けて十字架につけられます。)

2012.3.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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