からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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3タイプ別の信仰

テーマは『信仰者の3タイプ』です。

【ヨハネ20章29節】

復活したイエス様が弟子のトマスに語った言葉です。

信仰には大きく分けると3つのタイプがあります。
イエス様を信じて教会に行っているからといって、その人達が同じ信仰ではないです。
外見は同じ信仰を持っているように見えます。もちろん信仰歴も違いますが、
みんながイエス様を信じているように見えますが、中を覗いてみると違います。

①見ても信じない人
信じているから教会に来ているのに、見ても信じない信仰を持っている人がいますか?
それは実際にいます。教会に来て神様の色々な奇跡を見ていても結局は信仰が無かったという人達です。
イエス様がいる時代、イエス様はたくさんの奇跡を行いました。
すごい数の群衆が集まってきていますが、奇跡が起こらなかった日はないです。
それも数え切れないほどの奇跡が、3年間 毎日起こりました。
聖書に記録できないくらいでした。

イエス様が活動したところで信じた人たちは多いと思いますか?毎日奇跡を起こしましたが、
彼らはイエス様を信じませんでした。 それは(イエス様を)神様として信じませんでした。
多くの人たちが色んなことを語りました。「優れた先生である」など色んな言葉を語って、
イエス様の働きや力は認めました。でも信じることはしなかったです。

私も昔はこういう者でした。救い主としては「あぁ、あの方は神様なのか」と思いましたが、
他人事のような思いでいました。それはなぜかというと、霊的に無関心だったからです。
「(聖書は)神様の言葉なんだ」と認めるのですが、信じないです。
信仰として、自分の救い主としては受け入れることはしなかったです。

見ても信じない。このような人達は、いつ信じるでしょうか。
こういう場合の人達は、色んな試練に出会ってからイエス様を信じる人が多いです。

イエス様の奇跡を見るために、毎日 見物に行きました。どんな人達が癒されるのか?
今日も奇跡が起きた。悪霊が追い出された。など
毎日それを目で見るのですが、それを神様だと受け入れて、イエス様の弟子になってついて行く
という人は少なかったです。

パウロが、イエス様が復活した後にヨーロッパに行って福音を伝えた時に、
彼らは実際に(イエス様を)見たことがないです。
今の時代のように旅行が自由でもなく行き来ができないです。
しかしパウロは行って、言葉・福音だけを伝えました。彼らは見てもいないのですが、
信じました。反対にその所で信じた人達が多いです。

イスラエルはイエス様が生まれて活動した場所ですが、今でも信じる人が圧倒的に少ないです。
ユダヤ教は多いですが、クリスチャンは少ないです。クリスチャンは今でも迫害されています。

ヨハネの9章で盲人の姿が出てきます。イエス様が可哀想に思い、目が見えるように癒しました。
そして目が見えるようになり、それはどれほど嬉しかったかわからないです。
すると、彼に困ったことが起こりました。
奇跡が起きて証をするのに、宗教の指導者たちが認めませんでした。
「あなたはどうやって見えるようになったのか?」
彼はもともと見えない者でしたので、イエス様から言われた言葉やどのように行動をしたかを
伝えました。
実際目が見えなかった本人が証言しているのに、彼らは何度も何度も呼んで
「誰がそのようなことをした」や「あなたはどう思うのか?」と尋問をしました。

【ヨハネ9章26-36節】

見ても信じない者がたくさんいる中で、盲人だった人に「あなたは信じますか?」という言葉を使いました。
「主よ。その方はどなたでしょうか。」これは目が見えなかったからわからなかったですね。
そして「信じます。」と言いました。

彼らはみことばをよく知っていると言い、イエス様が来られることは聖書に書いてあるのに、
彼らは本当に目が見えない者であります。

【ヨハネ9章39節】

そこでイエス様は彼らに厳しい言葉を言いました。
見ても信じない人は目が見えない者であります。自分では気づいていないです。

信仰は霊的なものであります。目で見て信じることが信仰ではないです。
信仰は「聞いて 信じること」です。信仰は「聞く事から始まり」ということばがあります。

【ローマ10章17節】

私たちが錯覚するのは「見たら 信じる」というものです。
こういうタイプが一番多いです。教会に来ていてもそうです。
聞くだけでは信じられない → この人は根本的なことから間違えています。

この世の中には、目に見える世界と目に見えない霊の世界が2つ同時にあります。
だから信仰というと今まで肉眼で見えない霊の世界。
これを神の言葉によって霊の世界がある、目に見えない神様がそこに存在する。
それを語ってくれるので私たちが見えなくても、その言葉を信じます。
そこから信仰が始まります。

神様は霊であります。ですから私たちは言葉で信じなければならないです。
見えるようにしてくださいと要求しても神様は絶対に応じないです。
これ自体が神のみこころからずれています。信じる気がないです。

【ルカ16章27-31節】

人の心を知っています。モーセと預言者の教え、すなわち神様の言葉を受け入れない者、
それを信じない者は、たとえ奇跡が起きても、絶対に信じないです。
認めることと信仰は全く違うものであります。

②自分が見たものだけを信じる人

自分が見たものだけ。他人が何と言っても、それは信用できない。
トマスがそうでした。
弟子たちにイエス様が復活した姿を見たと言った時に、トマスは「いや、それは私は信じない。」と言いました。
「私のこの目で確かめない限り、本物かどうか触ってみて、本物であれば私は信じる。」
同じものを聞いても、なぜそうなるのでしょうか。
心がとても疑い深いです。そして自分は知恵があると錯覚します。「復活なんか有り得ない」と。
自分の経験をとても大事にします。これは自分の理性が信仰よりも上にあります。
このようなタイプも多いです。

自分が見て自分で確かめたら信じるけど、人が「こんな体験をした。こんなものを見た」
こういうものには信じません。
それは違うものを見たのではないか?悪霊ではないか?と言います。

奇跡は信仰の結果として生まれてくるものです。
ですから私たちは理性だけでは理解ができないです。理性は信仰と正反対のことであり、
信仰を邪魔するものであります。
見ずに信じる者に向かって「あの人は考えが足りない。」とか「何でそんなに単純に信じるのか?」、
「だから知恵がない」とか色々言います。
このような人は神様を試します。 「私に見せてください。あの人は信じるかも知れませんが、
私にはそれだけでは不十分です。私が直接見て、体験しない限り神様を信用できません。」

しかしこのような人は自分の理性で考えているようで、そうではありません。
「見える」ということは「感覚」であります。「見る・触る」これらは感覚であります。
ある意味、理性ではないです。しかし自分は理性的で論理的であり合理的である、そういう錯覚をします。

ギデオンがそうでした。神様の言葉を聞いた時に、疑いが入ってきました。 
「私のような者が~」とか「神様、本当にいるならば、どうして私の国がこんな目に遭うのか」 と
色んなものがありました。神様が民を救いだしなさいと言った時も、神様をテストしました。
「神様、こういう奇跡を起こして下さい。」 そして神様はそれを聞いてあげました。
そしたらそれでもまだ満足しないで「神様、お願いします。もう1度奇跡を・・・」と
神様をテストしました。神様はそれも叶えてあげました。そしたら「信じます」と言いました。

神様は本当の意味では触らせません。触ってみなさいという言葉は使いましたが、
触れるなということであります。なぜなら疑いの心でイエス様に触れるなら汚れてあります。
自分達の心を見ると、色んな疑いが出てくると目が濁ってきます。心も濁ってきます。
まともに見えません。
自分ではまともに見えると思いますが、錯覚が多いです。自分の心の汚れを取り除かなければならないです。

疑いが多いと二心であります。ある意味で神様に疑いを持って祈ってもそれは答えられないです。
その人の心はいつも不安定で、風や波のように揺れるので、
そのような者の祈りは神様は受け取ることができないんだとおっしゃいます。
疑って得るものは1つもないです。せっかくの良い物も全て失っていきます。
神様を信じたら心が平安になります。信じる事がイエス様が私たちに求められておられることであります。
自分の求めているものが答えられる為にも、完全に信じることであります。

③見ずに信じる信仰は幸いである

イエス様がトマスに語りました。
これはみことばをありのまま、「主がそのように語っておられるから私はそれを信じます。」と
これは謙遜な信仰であります。

「印を見せてください。印を見せてくれたら私は信じます。」これは傲慢な心であります。

神様をテストすることが謙遜な心でしょうか? そうではないです。
私たちは他人からテストされることは嫌なんです。
相手が自分を疑う心でテストをすると「何で疑うの?」、「何で私がテストされなければならないの?」と。
私たちは弱い者ですので、時には神様は聞いてくださいますが、神を試みてはならない。
と聖書に書かれてあります。

「神が言ったならば、それを謙遜な心で信じなさい」神様は私たちの信仰の対象であります。
それが神様が一番喜ぶ信仰であります。見ずに信じる者、それはその人自身が見えなくても
神様のみことばを心から信じるその姿勢です。 「聞いて 信じる」この姿であります。

ノアが神様から聞いた言葉が「この世が洪水で滅びるから箱舟を造りなさい。」
神様が語った時に、彼は何も見ていないです。過去にそういう事が起こったことも聞いたことがなく、
箱舟も見たことがありませんでした。でも神様が1つ1つ指示をしました。その通りに彼は箱舟を造りました。
将来起こることを信じました。100年くらいかけて、ノアは箱舟を造りました。
見ていないのにしました。これが信仰であります。だから神様はノアを認めました。

アブラハムは神様から言葉を聞きました。(目では)見ていないです。
神様がカナンの地の写真を見せて、この地をあなたに与えるとは言っていないです。
どこに行くのかも神様は教えていないです。
「あなたの父の家、生まれ故郷を離れなさい」と言われてどこへ行くのかも知らないで、
ただその言葉だけを信頼し、「神様が私を導いてくださる。神様が私を祝福する」と彼は出ていきました。

ヘブル書11章に出てくる信仰の人は、全員このような人でした。
全員が神様に対して、絶対的な信頼を置きました。そして信じて行動をしました。
だから神様は彼らを祝福し、彼らを用いてくださいました。

イエス様の復活もある意味、人間の経験・知識では信じることができないものであります。
「信じられない。」、「そんなことが起こるはずがない」と。
ですから、トマスのような人は多いです。
他の弟子たちも初めは復活を信じませんでした。だけどその後、見た時に本当に信じました。
トマスは弟子たちの言葉を信じませんでした。

でも神様は信じられないことを信じなさいと語っておられます。
信じられないことを信じるのが信仰であります。

誰もが見て、十分信じられる可能性があるもの、それを信じることは信仰ではないです。

例えば、コップを見せながら「これはコップです。」と言うなら、目で見ているのでコップだと信じます。
「いえ、それは違います。」という人はいないと思います。
目で見えて、誰でも(コップだと)認めるものだからです。神様が「信じなさい」と言わなくても、
私たちは「言わなくても知っている」となります。

しかし信仰というものは人間的な理性では絶対に可能性がないものであります。
信じることができないものを、私たちはただ「神様が語るから」、「神様から出た言葉であるから」
私たちはそれを信じることであります。
だからイエス様はそういう人は幸いであると語りました。

誰も神様を見た者はいないです。しかし神様が生きておられることを信じています。
なぜなら言葉を聞いたからです。

【ヨハネの黙示録1章3節】

心に留める=信じることであります。この人たちが祝福を受ける人であります。
その人達が本物の信仰を持っている人達であります。

イエス様は子供のようになりなさいという言葉をよく使いますが、
それは子供たちは単純な心だからです。
子供が頭の中で計算をしたり、論理的に計算して理性的にすることはないです。
子供たちは単純にそれを信じます。それで騙されて誘拐されることがありますが、
神様の言葉には偽りがありません。騙すことがないです。

真理を聞いて信じられないという人は不幸な者であります。
見えない世界の方がある意味現実であります。それを神様は信じなさいと語ってあります。

「見せてください。見せてください。見せてください。」 と言うのは、神様は信仰の薄い者とおっしゃいます。
弟子たちがそうでした。

私たちがいつまで経っても「見ないと信じられません。見せてください。」と言うなら、
神様は「いつまで弱い信仰のままであるのか。本物の信仰を持ちなさい。みことばを信じなさい。
見なくても、神から出た言葉として見ずに信じなさい。」そしたらそれが現実に現れます。

奇跡は信じてから現れるものです。奇跡を見て信仰が生まれることではないです。
何も見えなくても信じるから奇跡が起こります。
だから奇跡を見たいならば、「見せて下さい」ではなく、「信じますか?」から始めます。

「神様は奇跡の神様であることを信じます。」、「私は神様のみことばをそのまま信じます。
ですから神様、これらのこと、主よ 働いてください。
そうすると私は神様が奇跡を起こしてくださることを信じるので、それが起こることを感謝します。」
このように、まず信仰を見せることであります。
信仰がないから神様は答えることができないのです。

ですから私たちは順番を間違えてはいけないです。
神から得る全てのものは私たちの信仰から得るものであります。
「ですから神様、わからないですけど、信じます。信じます。」
口先ではなく、心から信じることであります。そしたら神様が「わかった。あなたの信仰が奇跡を現す。」
私たちは口の告白がとても大事です。疑いの心があるから信仰を持つことができないです。

見ずに信じること、この道以外にはないということを心で信じてください。
私たちも信仰ある者になりましょう。 (*^・ェ・)ノ

2012.4.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリスト復活の目的は?

テーマは『キリストの復活の目的』です

【ローマ10章9節】

神様を知らない人を導く時に、9ー10節はよく伝える箇所です。
私たちの口でイエス様が復活したことを信じて告白するならば救われるという言葉が出て来ます。

イエス様の十字架だけを告白したら救われるということではないです。
ここにはっきりと書いているのは、
「死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら」ば、復活があります。ということです。

『十字架の死、そして復活。』それが完全であります。
十字架だけで終わったら、神様は、その信仰は虚しい信仰であると語ってあります。

イエス様が死んで蘇ってくださらなかったら、私たちが信じても先に希望がないです。
イエス様は復活した理由を色々と語ってあります。

― イエス様が復活した目的はわかりますか?
ただ私たちに永遠の命を与えるために復活をしたのでしょうか。 ―

復活のことを知るには福音書を開くことが多いですが、今回はあえて福音書は開かず、
ローマ書はキリスト教の教理がすごく書かれてあります。
キリスト教とはこういうものなんだ、キリストを信じるということはこういうものであるんだ。
そして復活に対してもローマ書が一番多く書かれてあります。

①【ローマ書1章4節】

神の子であることを神様は復活によって人々の前に示しました。
これはイエス様が十字架になぜ架かったのか、どんな罪を被せられて十字架に架かったのか。
ユダヤ人達、律法学者、パリサイ人、祭司たちはイエス様が死ななければならない大きい罪は
自らを「神の子だ」と言っていることでした。彼は神を冒瀆する者である、と。
神聖冒瀆罪でイエス様は罪にされました。
そのまま死んでしまったならば彼らの言葉通りになっていましたが 
(やはり神の子ではなくただの人の子だったんだ)
ですから神様は、復活をさせて神の御子であることを示しました。
死者から復活した者はいませんが、イエス様は神の子であるので復活できました。

②【ローマ書4章24-25節】

私たちが義と認められる為です。
イエス様が十字架に架かるということは、私たちの罪の為であります。
そこで流した血によって私たちは洗われました。
それだけではなく、蘇ったことを信じる者(十字架を信じ、復活も信じる者)は信仰を義と認められます。
神様が認める義がないと私たちは天国に入ることはできないです。

自己義では入れないです。「私はこういう良いことをしました。だから私は罪のない者です。」
これでは天国には入れません。

【ローマ書3章28節】

十字架を信じる、復活を信じる。これだけで神様は私たちを義と認めて下さいます。

③【ローマ書6章4節】

私たちも、命にあって新しい歩みをするためです。私たちも古い物ではなく、新しい物で復活しました。
イエス様もそうでありました。十字架の前に歩んだ姿と、十字架があり復活もあった後の歩みが違うものでした。
十字架の前の歩みは人間として生きていました。
しかし、復活によってイエス様は再び元に戻り、神として生きます。
人の子として生きることはしないで、神様から力を受けて勝利し、今も神の右の座に座っておられます。

クリスチャンも同じであります。イエス様に出会った後からは歩みが全然違います。
天国に向かって命の道を歩んでいる者であります。
それ以前は全て滅びに向かって死の道を歩んでいた者でした。
しかしイエス様の十字架に出会った時に、
私たちは死んで命を受けて新しい歩みをするために復活の命が与えられてあります。

④【ローマ書6章5節】

将来、私たちも復活します。それの為に、イエス様は復活してくださいました。
前もってイエス様は復活はどういうものであるのかを見せてくださいました。栄光の姿でありました。
「あなたたちも将来、復活する時は私と同じ身体に復活するんだ」

⑤【ローマ書6章9-11節】

死がキリストを支配することができないように、死が私たちを支配することができません。
復活の命を持っている者の上には死は何も力がないです。
神に対してあなた達は生きた者だと思いなさいとおっしゃいます。
これは私たちが死んだ時に経験すると思います。今は肉体が生きているので、
「今生きている」としか考えませんが、肉体を脱ぎ捨てた時には命ある者と命のない者の行く道は
全然違います。
ですからキリストにあって命をもらっていない人は、第2の死が待ってあります。永遠の死です。
永遠の死は無くなって消えるものではなく、永遠に苦しみを受けることです。

しかし私たちが受けているものは永遠の命であります。
死がどんなに力を振って私たちを第2の死に落とそうとしてもできません。
復活の命はそれに飲み込まれません。

⑥【ローマ書7章4節】

目的は「神のために身を結ぶようになるため」です。
神様を信じる人は自分の為に生きるのではないです。聖書に神の栄光の為に生きなさいという言葉があります。
私たちが枝として、ブドウの木であるイエス様に繋がっている状態であります。

イエス様に復活の命がありますので、その力が私たちに流れてきますので聖霊の実を結ぶことができます。
聖霊の実は、イエス様から聖霊の力をもらって命をもらわないと結ぶことができないです。
離れたら命は消えてしまいます。

地上にいるときは命をもって神様のために実を結ぶ者にならなければいけないです。

⑦【ローマ書8章11節】

目的は「あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる」のです。
イエス様がなさったことは全部私たちの為であります。自分の為ではないです。
自分を通して全ての恵みを私たちに流すために、イエス様は十字架の死も復活もこの世に来られたことも
再臨することも全部私たちの為であります。無関係のことは1つもなさらないです。

復活したことも私たちの中にイエス様は御霊を送ってくださいました。その方は命であります。
その方が自分の命の中に住んでおられるならば死ぬことがないです。

サタンが持っているのは死の力であります。
死の力ということは私たちが罪を犯した時に入ってきた力であります。サタンは必ず死を持ってきます。
魂、肉体を殺していきます。ですから悪霊を受け入れている人には死しかないです。

聖霊様は命であります。命が入ってくるならば私たちの肉体が死んだとしても、その命にあって必ず生きます。
魂だけ生きるのではなく、死んだ身体さえも命を与えて栄光の姿に変わっていきます。

⑧【ローマ書8章34節】

罪に定められないようにするために、イエス様は復活されました。
罪に定めようとするのは、サタンであります。
サタンは神の前で訴える者であります。それは私たちに対して弁護士の役割をするのではなく、
まるで裁判にある検事と弁護士の検事です。
弁護士は罪を犯したことを知っていても、弁護をしてくれる存在です。検事と弁護士はいつも対立します。
私たちのとりなしをしてくださるのはイエス様であります。
神様は裁き主であります。サタンは「この者はこんな悪い事をしました。
あんな悪い事をしました。」と私たちが生まれた時から犯した罪のことを言って、
サタンは自分のことは棚に上げて私たちを地獄に落とそうとします。

そこで立ち上がって私たちをとりなして弁護をしてくださるのはイエス様であります。
「この者は罪を犯しました。しかし私を信じて罪が赦されました。私を見てこの人を赦してください。
 私はこの人の為に十字架に架かりました。」 
私たちが罪に定められることがないように、イエス様がずっと言ってくださいます。
イエス様が死んだままなら、誰も私たちを弁護してくれる人はいないです。

⑨【ローマ書10章9節】

私たちを救うために。私たちが救われることは、ただ罪が赦されるだけではないです。
それは2つあります。罪が赦され、そして永遠の命を受けることであります。
イエス様が死んでくださったと信じる時に罪が赦され、
イエス様が復活したことを信じる時に私たちは永遠の命を受けます。
この両方であります。これが本当の救いであります。

ですから苦難から救われる、病気から救われる。それが私たちの救いではないです。魂の救いのことです。
私たちが神様と交わりをして霊が救われないと、私たちは神様と何も関係のない者になり、
永遠の死を迎えるしかないです。
ですので私たちの信仰にはキリストの復活も入っていなければいけません。
その復活を信じなければいけません。
「十字架は信じても、復活は誰かの作り話でしょう?」 それならばその人の信仰は命とは関係がないです。
それは本当の信仰ではないです。

⑩【ローマ書14章9節】

目的は「死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるため」です。
この地上の真の神様はキリストです。キリストは人々に命を与える方ですが、裁き主でもあります。
肉体は生きていてもキリストから命をもらっていない人は既に死んであります。
「私の肉体は生きているけど?」 神様はそれは塵に過ぎないものだとおっしゃいます。

中に命を持ってある人こそが「生きている」者であります。キリストは全ての物に対する主であります。
命の主でもあり、死んだ者たちに対しては裁き主であります。
死んだ者には何も力がないです。命を得ている者が弱そうに見えても一番強い者であります。 

キリストはこのような目的で復活しました。
ですから復活を信じる皆さんは、何故イエス様が復活したのかをローマ書で今日挙げた言葉を覚えてください。

人に伝える時に十字架だけ伝えたら、それは50%しかなっていないです。
必ず復活を言わないといけないです。十字架の目的と復活の目的を両方語って、
それが完璧な福音であります。
それを聞いて人々が信じるならその魂は救われます。
自分の中にそれをしっかりと留めておいてください。(⌒∇⌒)

2012.4.8
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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