からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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言い訳

テーマは『言い訳について』です。

【ルカ9章57-62節】

ここには弟子の姿が書かれてあります。
弟子は「主に従っていきます」と熱い想いを神様に語りました。
しかし、それに対してのイエス様の返答は「58節」にあります。
弟子には<弟子として従っていくことの先にある苦難>などに全く気付いていないです。
このような人達にはイエス様が事前にきちんと教えておかないと、後になって
「 神様に従うことはこんなに大変なことですか。従うことがこんなに苦しみが多くて、
経済的にもこんなに大変なんですか?もうこれ以上ついていけません。 」
実際にこのように神様から離れていく人がとても多いです。

イエス様はこの人達が後になって言い訳することを知っておられたので、言いました。
「覚悟ができて、はじめて私についてきなさい」

また、もう一方でイエス様が周りの人達に語った言葉があります。
イエス様が「従ってきなさい」と語っておられるのに、「 神様に従うことは従いますけど、
その前に人間としてやるべき事をしてからついて行きます。 」
これは人間が一番多く使う言葉であります。「 家族があります。他にすべきこともあります。
人間として当然のことですので、それを先にやらせてくださいね。 」

一見、この言葉は人間らしく、家族想いのように聞こえますが、神様はこれを否定しました。
私たちはこの言葉を使いながら、心の中に思っていることがあります。
世の中のことにまだ執着していることが多いです。
それによって神様を第一にすることができないです。優先順位が神様が一番ではないです。
召されているにも関わらず、まだ世に対しての未練が捨てられないです。

神様は「霊に属する者はどんな時でも霊のものが先なんだ」と語ってあります。
農夫は収穫の時に畑に立ちますが、(タイミングが)ズレてしまうと収穫がないです。
私たちの言い訳は、神様には通らないことであります。

「 信じたいのに信じられない 」という言い訳
これはよく聞く言い訳でありますが、その言葉の本質は嘘(言い訳)であります。
信仰は神様からのプレゼントです。(信仰の賜物)
その人がこのように語っているにも関わらず、神様がその人に信仰の賜物を与えないはずはないです。
口先だけで「 信じたい 」と言う言葉の中身は「頑なな心」であります。
本音は信じたくないのです。自分の思いのままに生きたいという想いがあります。
本当に信じたいと思うならば、心を開いて「聖霊様、私に信仰の賜物をください。」と言いますが、
頑なな心の人は全て計算済みであります。

【ルカ18章22-25節】

この言葉自体は求める人の言葉でありますが、この人が1つだけ手放していないものがあることを
イエス様が気付き、財産を手放すことを言いました。
するとその人は「 永遠の命 < 財産・地位 」だったので変えることができませんでした。
主に従うにはそれらが邪魔をします。
永遠の命も欲しい、財産・地位も欲しい、このように両方手に入れようとするのは、
神様は無理だと言っておられます。

【ルカ16章13-14節】

普通の人から見るとパリサイ人がお金を愛しているようには見えないです。
彼らは外見では絶対にその姿を見せないです。とても敬虔な者のように「神様、神様」と
言いながら、宗教ゴッコをしています。形だけで神様に従っていきます。そしてたくさんの言い訳をします。
神様の言葉よりも、他のことを取るなら、それの方を重んじていることになります。
これは私たちにもあります。神様の言葉を無視することが多いです。

【マタイ9章13節】

「 私はもっと立派な人になってから主に従います。こんな罪人が主に従うことは出来ません。 」
謙遜な言葉に聞こえますが、これは謙遜ではないです。
これはパリサイ人がしたことに対してイエス様が答えた箇所でありますが、
世の中で周りの人に「あの人が一番罪深い」と言われる人達がイエス様のところに集まり、共に食事をしました。
それを見て、自分の方が遥かに立派で 聖い者であると思っている人達が非難をしました。
「 もっと立派になってから主に従います 」と言うことは、自分の罪を認めていないことであります。
自分が罪人だと知っている人達は、誰がこの状況から救い出してくれるんですか?と
自分に失望をしているので自分を赦してくださる方を求めています。
だからイエス様のところに本当の罪人たちは喜んで来ました。
この言い訳を言うのは、自分の罪を隠しています。悔い改めたくないのです。
自分の罪を自分で聖めることができるでしょうか?これはイエス様にしかできないことです。

自分達の失敗に対して言い訳しながら、「 今は神様のときではない 」という人達がとても多いです。
「 神様のときが来たら、ちゃんと従います。 」

【ハガイ書1章2-4節、9節】

彼らは「 神のときは来ていない 」と、それらしき言葉を語っていますが、これは彼らにある心配がありました。
彼らが捕虜から帰ってきた時、彼らは全員熱心で、主のために一生懸命働き 取り組んでいました。
その時に敵から色んな非難が出てきました。すると彼らの熱心な心が冷めていきました。
「 非難されるし、したくないな。自分達の生活もあるし、しんどいな。 」
そこから神様のみこころに従って歩むよりも個人的な計画を立てるようになりました。
自分の家を建てるのに忙しく、
神の御前で言う言葉は「 主の宮を建てる時はまだ来ない 」と言い訳をしています。
優先順位が「自分」です。まず自分がしたいことを全部して、残った時間に神様の働きをしようとします。
ですから祝福がないです。種を蒔いたわりには収穫が少ないので、神様につぶやきます。

【ハガイ書1章6節】 【ハガイ書2章8節】

得るものが少なく疲れ果てるだけであります。
「言い訳せずに、わたし(神様)が一番上なんだ。」
神様のことを一番下にすると、神様が祝福したくてもそれが出来ません。

「 神様に従うことを誰にも知られたくない 」
自分がクリスチャンであることを隠して生きている人がとても多いです。

【マルコ8章38節】

「 私はまだまだ未熟だから知られたくないです 」と、
教会へ行くのに家族にはいつも「会社へ行く」と嘘を付きます。
家族に「 非難されるのがイヤ 」「 闘うのがイヤ 」「 自分の立場と地位が悪くなるからイヤ 」
「 迫害もイヤ 」
これらを恐れて神様を信じていることを隠します。
これに対して神様の言葉は「 わたしもあなたを恥じる 」であります。
このことによって、救いを受けているつもりでも、受けていないことになります。

公の場で、自分がクリスチャンであることを言わなければならないです。
わざと言う必要はありませんが、「日曜日どこへ行っているの?」と聞かれた時に、
「 ちょっと用事が・・・ 」、「 仕事です。 」ではなく、
教会に行くならば「教会へ行きます」と言わないと福音を伝えることができないです。
迫害されるならば、それを喜んだら良いです。「私の信仰が神様に認められた!」と。
しかし、多くの人はごまかすために言わなく、否定することすらあります。
これは正しくない姿であります。

「 何で救いがイエス様だけなんだ 」と腹を立てながら言う言い訳があります。
これは世の中の多くの人が持っている神様に対しての言い訳です。
「 日本には日本の宗教があるのに、何で外国の宗教を信じなければならないのか 」と
腹を立てて受け入れないです。しかしこれは正しい言葉ではないです。
その人達は救いが何なのかを知らないです。
ある意味、伝統儀式になっていて、自分の罪が贖われて天国へ行くという意識がないです。
実際 神様を知らないのに、まるで自分は神様を知っているかのように、日本の宗教、世界の宗教、
それぞれに救いがあるでしょう、と言いますが、
(その人達に)救いの意味を聞いても誰も答えることができないです。
それは、神様に出会わないと正しい返事ができないからであります。
「 私は今の宗教でいいわ。私はここで極楽に行くし。 」
これは生きておられる神様を信じたくない者の言い訳であります。
クリスチャンを神様から離そうとし、イエス様のことを非難します。

【ヨハネ21章22節】(教会での言い訳)

「 あの人がいる為に信じられない、従えない。あの人がつまずきの元である。
神様に従いたいのに、教会に行きたいのに、あの人がいるからできない。 」
イエス様は「人を見て来なさい」とは言っておられないです。
これは弟子たちの間でもありました。
人はお互いに助け合ったり、教えたり、世話をしたりすることがたくさんあります。
しかし、自分の世話をしてくれた人だからといって、その人についていくことはないです。

自分に教えてくれたその人が神様ではないです。人間は誰でも弱い者であり、
イエス様が語った言葉は、「わたしに従いなさい。」イエス様が先頭に立っておられます。
自分が信じたくないから他人のせいにする言い訳であります。

【使徒の働き16章29-30節】

「 主を信じたいのに、その方法がわからない 」と言い訳をします。
「 どう信じたらいいのかわからない 」と言い訳して信じない人がいるならば、
神様はこの人物を見なさいと言っておられます。この看守は福音を全く聞いたことがありませんでした。
しかし看守が監獄の中で起きたことを見た時に、パウロとシラスに言いました。
救われる為にどう従ったら良いかわからないと本気で思う人は、必ずこの看守のように熱心に聞きます。

【使徒の働き16章33節】

看守は2人から方法を聞いて、すぐに従いました。看守の中に言い訳は一切ありません。
自分だけではなく、家族も全員救われました。神様は 求める者に与えるお方であります。

【使徒の働き24章24-26節】

「 イエス様に従っていく確信がないので、だから今はついて行けません。 」
本音はそうではないです。初めはキリスト・イエスの信仰についての話を聞きたいという興味だけで来ました。
これはこの人が救われるチャンスを神様が与えてあります。
パウロがそこで福音を宣べ伝えました。すると彼はそこで恐れを感じました。
恐れを感じたということは、「これは本物だ」ということであります。
しかし、彼の中には「二心」がありました。

二心がある人達は、口先では神様を求める言葉を言います。
「 みこころを教えてください。そうすれば私は神様に従っていきます。 」
もう一方では、本当に従いたいという思いがないです。
まだまだ自分のしたいことがそこにあります。自分の心の中に決めたことがあります。
ですから神様に求め、神様の言葉を聞いていても、サッと逃げます。
興味があって何度も何度も聞きますが、もう一方では自分の思いが働きます。
神様のみこころを知るのが怖いのです。聞きたくありません。
それで「 完全に確信ができたらついていく 」と言いますが、神様についていく事を恐れています。

「 自分の力だけで出来るから充分。神様に従っていく必要がない 」という言い訳。
「 なぜ神様が私に必要なのかがわからない。 」
この人達の思いは、この世がすべてであります。神様なしでもこの世では生きることができます。
世の中は神様を信じる人達だけが生きているのではないです。
世の中とは、私たちが肉体を持って生きる世界であります。
肉体から命を取られたら、私たちは塵(ちり)に帰ります。これが神様の法則であります。

「 今までも(神様なしで)生きてきたし、他の信じない人もちゃんと生きてきたのではないか 」と言いますが、
この人たちがわからないことがあります。それは次のみことばです。

【ヤコブ4章13-14節】

自分の計画は全部うまくいくわけがないです。自分の命も、自分のものではないことに気付く時が来ます。
自分の計算の中には自分の命が入っていないです。
自分の命も自分の思いのままに生きていると思っていますが、神様は「消えていく霧にすぎないんだ」と
語ってあります。命の所有者は神様であります。自分の意思で命を延ばすことはできないです。
神様が命を取るときには、私たちは抵抗ができなく死ぬしかないです。
これは自分の力では生きていけないことを神様が見せてあります。

自分の力だけで生きていると思っている者たちに語ってある箇所があります。

【エレミヤ書9章23-24節】

一番賢いことは、悟りを得て自分の力では生きていけないことを知りなさい。
< 自分が主ではない、主はわたしである。 >
主がすべての物を支配しており、すべての物を動かして、すべての物の始まりであり、
終わりであるということであります。
それを、私(自分)が始まりであり、私が終わりである。とんでもないことであります。
これを私たちが忘れず、このような悟りを得るのが賢い人です。
自分がどう生きるべきか、それを分かる人であります。
 

言い訳ばかりする人を、神様はその人が頼るものを崩していきます。
健康に頼る者には健康を取ります。お金に頼る者にはお金を取ります。
失望させて、そして神様が導くことがとても多いです。

私たちはいつまでも神様に言い訳をするのではないです。短い人生なのに言い訳ばかりして、
私たちが恵みの時を逃す。すると後に残る物は、何の収穫もないです。
後で歯ぎしりをして自分の人生を後悔します。
「あの時にそうすれば良かったのに」と気付くのは愚かなことであります。

神様の言葉一つ一つに対して、なぜ主はそのように語っておられるのかを耳を傾けて従う者になると
その後は神様が導き助け、そして守ってくださいます。 (⌒-⌒)

< 今週の目標 >

【神様に対して、言い訳をしない】

2012.6.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

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恵みの雨を求めましょう

テーマは『 神様の恵みの雨を求めよ 』です。

【ゼカリヤ書10章1節】

わかりやすいように書くならば、次のようになります。
「春には主に雨を降らせてくださいと求めなさい。主はいなびかりを作り、夕立を降らせ、
すべての人々に畑の野菜を与える方である。」

パレスチナ地方では10月中旬~11月に種を蒔き、その時に降る雨は「先の雨」と言い、
3月~4月は穀物が実を結ぶ時期で、良い実を結ぶには「後の雨」が必要であります。
イスラエルの民達は「先の雨」と「後の雨」が、その時期に適切に降るので
神様の特別な恵みであると考えています。

畑にはどんな物を育てるにしても、必ず適切な時期に適切な量の雨が降らなければ、
それは全てダメになります。

【申命記11章13-17節】

天を開くとは・・・私たちに「恵みを与える」
天が閉ざされるとは・・・私たちの「恵みが無くなる」 ということであります。

神様を信じる、信じないに関わらず、人は神様の恵みによって生きているのです。

神様との関係が悪い人には、神様の特別な恵みは流されないです。
「恵みが無いなぁ」と思う時は、神様のせいではないです。
自分自身を調べなければならないです。

【エレミヤ書5章23-25節】

原因は私たちの方にあるということであります。

【ヤコブ5章7節】

信徒にとって「先の雨」と「後の雨」は何でしょうか?
先の雨・・・救われた時に、神様から受けた恵みです。(命の種)
後の雨・・・成長していく為の恵みです。

私たちは「後の雨」に対する期待(願い)が乏しいです。
先の雨を受けてそれで満足して、あとは自分の方法や思いで生きようとしています。
それで自分は信仰生活をしていると勘違いをしています。

【マタイ5章45節】

自分の力に頼って生きることほど、愚かなことはありません。
自分たちが健康で生きている時は何も思わなかったことも、
身体の1箇所でも不調になると身動きがとれなくなります。
このことで「自分の力では生きていないんだ」ということがわかります。

神様の恵みによって私たちが日々生きていることを自覚しなければならないです。
祈るということは、神様から恵みが流れてくるということを認める行為であり、
自分は神様に頼らないと生きていけない存在だということが祈りであります。

祈りをするということは、準備をするということであります。
≪恵みをもらえる相応しい心の状態にしておきなさい。≫
「神様の時に恵みの雨を降らせてください。」

私たちは神様に恵みを求めるだけで、自分の信仰生活をないがしろにする場合が多いです。
恵みを受ける準備が出来ている人に神様は恵みを与えてくださいます。
そして、それは一番良い時に与えてくださる神様であります。

【レビ記26章4節】

【詩篇68編9節】

【ヨエル書2章23-24節】

◎今週実行することは、「恵みの雨を求めよ」です。
自分の力に頼らないで、毎朝 神様にその日その日に必要な恵みを祈ってください。
どこへ行くにしても、相手の不注意で自分も事故にまき込まれる事もあります。
昨日、健康だったから今日も健康ということでもありません。
「身体を守ってください。」など具体的に祈ってください。人間関係・家庭・職場・学校etcです。 (・◇・)ゞ

2012.6.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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